奈良美智のファンの立場になって議論してみる

奈良美智とラッセンについてのUstream発言起こし

引用ココカラ———

これを聞いて、「自分はそんな単純な理由で奈良さん(あるいはラッセンさん)を好きなんじゃない」と反発する人はいるだろう。そういう人はその理由を示せばいいのではないかと思う。 私がかつて大学で、奈良美智について学生に聞いた範囲では、「ピュアな感じ」「自然体」(本人が)か、「なんとなく」「理由なんかない」などの回答が多かったのだけど、どういう点がアートとして優れているのか、きちんと説明できる人はファンの中にもちろんいると思うので。

———引用ココマデ

にからんでみる。

既に下記でラッセンと比しての奈良美智の価値は語られているので完全に蛇足というか後追いですが。

奈良美智氏「ラッセン大嫌い」事件を考察してみる

 

フェミニズムの立場からのアート批評でよく言われるのは、作家の95%は男性でモデルの95%は女性みたいな話です(数字は忘れた)。つまり男性は見る、女性はそれに対して(裸を)無抵抗に見られるという力関係が伝統的に存在しているのです(このへんWay of seeing という本を引いた考察があるので参照)。

そういった一方的な支配に対しての批判や抵抗をテーマにした作家としてトレイシーエミンは顕著な例といえるでしょう。彼女は自分が性的関係を持った男性の名前を記したテントを発表しています(男性にとってはたまったものではないですね)。草間彌生も男性器のモチーフをひたすら増殖させた作品をシリーズ化していたと記憶しています。

ひどい言い方なのですけれど、メッセージ性を持った作品を作るにあたって、マイノリティーであること、社会的/肉体的弱者であることは武器になります。肌の色や性別、国籍、両親の経済状況が不可避的に人の一生を規定してしまうという現実に対しての対抗手段としてのアート、というコンテクストはなかなか魅力的です。

それでは逆に言うと自分が選び取ったわけではないのにたまたま社会的強者に生まれてしまった人は、現代ではアーティストになることができないのでしょうか? アートの評価軸は複数ありますし、メッセージ性と技術が相反するわけではないので極論ですが、自身は強者(成人した男性)でありながらも弱者の立場に立ってメッセージ性を獲得する、これが奈良美智が取っている戦法だと思うのです。(意識的にしろそうでないにしろ。)自分が当事者(弱者)でもないのにその立場によりそうことは偽善ではないのか、という議論もあるかと思いますが、声なき弱者の声を代弁する力がある人がいるのなら、その力を使うことを責めるのは難しいというのが個人的見解です。

奈良美智の描く少女達はアンバランスな目と口の大きさをしています。不機嫌そうな顔をした彼女たちは、言葉を発する替わりに絵を鑑賞するという行為に於いて主体であるはずの鑑賞者を見つめ返し、「一方的に見られる」という力関係を壊そうともがきます。その目線は同時に、自立と女性らしさという相反する圧力を社会から感じている(若い)女性に優しくよりそっているようにも思えます。描かれている女性達の年齢が幼い(多分生理が訪れる前)のも、やはり「社会化」して「男性の求める女性らしさ」を演じることに抵抗しているのではないかと思われます。 ラッセンはよく知りませんけど、あまりそういったメッセージ性や社会への抵抗は感じないです。彼も理想郷を示すことで「イルカが撲殺される現実」と戦っているのかもしれませんけどね。

インタビューに答えた美大女子たちが「なんとなく」といったふわふわした言葉でしか奈良美智の良さを語れなかったのは、ある意味、「語らなかった」のではないかと思います。上記のようなアートヒストリーにおけるコンテクストがあーだこーだという話は、男性的なロジックであり、そのような議論に参加すること自体が白旗というか、「敵」の思うつぼになっている感じ。言葉や理屈で伝えられるのならば苦労はないし、伝えられたとしてそこに意味はあるのか?というハナシです。 だからこそ彼女たちは口をつむぐのではないでしょうか。 奈良美智の描く少女達のように。