南相馬に行ってきました(3)
最終日は小高地区へ。電車は復旧していないので、車を持っていない人は原町まで社協の人がピックアップに来てくれる。20km圏内に初めて入る。線量は鹿島とかわらないのだけれど、なんとなく緊張。20kmの境界線には警察がいる。
小高は約1年前から、「帰宅はできるが宿泊してはいけない」地域に指定されていて(それ以前は立ち入り禁止区域)、上下水道のインフラも復旧していない。ゆえに街に人や車の影がほとんどなく、自分が最初に南相馬全体に対して持っていた「ゴーストタウン」のイメージがそのまま目の前に広がっている。
小高の社協の建物の待合室に通される。待合室の前面にはホワイトボードのパネルが並んでいて、今日の作業が簡単に説明されている。参加しているボランティアの人は(鹿島と違って)圧倒的に男性、それも体を使うことに慣れていそうな人が多く、ちょっと緊張する。そもそもの作業内容が、「草刈機を使った除草」「松の木の抜根」など、素人がうろうろすると却って危なさそうなものがあるので、そのような経験者のみに振り分けられる作業と、初めてでもできるような掃除・整理系の作業に分けられている。
参加者は布ガムテープにマジックで自分の名前を書いて貼る。被爆によって将来体調不良が発生しても、保険の適用外であることを了承する紙にサイン。おそらく「被爆が原因」ということを証明するのが困難だからだろうとは思うけれど、正直こういうのはこわい。
「会長」と呼ばれる方の挨拶。何の会かは不明だけど、話の感じから自治会か、町内会か、そんな雰囲気。ボランティアへの感謝と、そして「小高を(線量の高い)浪江や大熊と一緒にしてもらっては困る」「小高を忘れないでほしい」ということを強く言っていらしたのが印象的だった。
清掃作業対象の家は3つあり、ボランティアは3つのグループに分けられてそれぞれリーダーを決める。リーダーも同じ人がいつもやっているのではないかと思う程、さくさくと決まる。現地に車で移動。私はいわきから来たご夫妻に車に乗せてもらう。
私たちが行ったお宅は敷地の中に自宅と事務所があり、私はご夫妻と一緒に比較的ちいさな事務所の担当になる。
事務所を経営していた方は既に亡くなり、息子さんが依頼者として現場に立ち会う。
事務所の中は思ったよりも地震当時のまま残されている。といっても時間が経っているので、ビニールが日に焼けてぱりぱりになっていたり、野生動物(狸?)のふんが散乱していたりする。
この事務所内にある大量の書類や衣類などを整理して、必要なものはとっておき(必要かどうかの判断は息子さんに仰ぐ)、不要なものは分別して廃棄という大変な作業。防塵マスクを持ってなかったので(ダメですね、、)、団体で来ていた方に1つ譲って頂く。
お昼は民宿の方にいただいた(大きな)おにぎり2コを道路の縁石に座って食べる。いわきのご夫妻に切ったリンゴと、塩飴を頂く。いただきっぱなし。水道が復旧していないので、飲み水はペットボトル、手を洗うのははポリタンクの水、トイレは歩いて少しのところにある仮設トイレ。
ご夫妻によると、いわきから車で小高に来るのは以前は1.5時間位だったが、事故後は迂回路を通らなければならないので3時間くらいかかるそう。やはり自分の親くらいの世代のお二人だが、震災直後はいわき、いわきが落ち着いた今は小高でボランティアされているそうで、その積極性と行動力に感銘を受ける。
午後もひたすら掃除をする。「どうせ捨てるから」といって一緒くたにするのではなく、電池やライターなどの危険ごみは特に気を配って分別し、庭に穴を掘って埋める。確かに、人のいない地域でごみの山から発火したら大変なことになってしまう。
掃除が終わって、また車に乗せてもらって社協に戻る。お茶セットが用意されていて、嬉しい。
社協の人と少し話す。インフラが快復すれば小高は線量が低いので、帰宅できるようになるはずだが、だからといって全員が戻ってくるとは限らない。「地区の問題」ではなく、「個人個人の問題」なのだと。
民宿のご主人が、今度は社協まで迎えに来てくれ、出発まで今度は小高地区の海岸を見せてくれる。
がれきや倒れかけの電信柱が残っていて、鹿島地区に比べてまだ復興が遅れているという印象を受ける。
夕食は原町の親子丼屋さん「歩々(ふうふう)」にて。伊達鶏の親子丼+好きなおかず(デザート)2品を選べる。鶏皮ポン酢とビールも追加。
この後バス停まで送ってもらい(結構な雨が降ってきて、歩々の方に傘を頂いてしまいました、、)、そこからバスで福島駅へ。新幹線でまたあっという間に東京に帰り着く。